大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成4年(ワ)19405号 判決 1999年12月08日

原告 江澤康一 ほか三七名

被告 国

代理人 齋藤紀子 小池充夫 小原一人 飯山義雄 ほか一一名

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告らに対し、それぞれ三三万円及び訴状送達の日の翌日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、東京郵政局管内又は関東郵政局管内の郵便局又は貯金事務センターに勤務する職員(郵政事務官)である原告らが、その上司である東京郵政局長、関東郵政局長、郵便局長又は貯金事務センター所長の違法な公権力の行使によって胸章着用を強制されたなどと主張して、国家賠償法一条一項に基づき、被告に対し、損害賠償として、原告らそれぞれにつき三三万円(内訳 慰謝料三〇万円、弁護士費用三万円)の支払を請求しているものである。

一  争いのない事実

原告らは、別紙勤務先一覧表記載<略>のとおり、東京郵政局管内又は関東郵政局管内の郵便局又は貯金事務センターに所属し、国営企業である郵便事業、郵便貯金事業又は簡易生命保険事業(以上の三事業を合わせて「郵政事業」という。)に従事する職員(郵政事務官)である。

2 郵政大臣は、国家行政組織法一〇条に基づき、郵政省職員に対する服務統督権を有しているが、郵政省設置法一二条の規定を受けて定められた郵政省職務規定二条は、郵政大臣の服務統督権を地方支分部局の長に委任し、郵政省設置法六条一項は、郵政省の地方支分部局として地方郵政局、郵便局を設置することを、同条九項は、地方郵政局の事務の一部を分掌させるため、貯金事務センターを設置することを、それぞれ規定している。

3 関東郵政局長は、平成三年三月二六日、同局管内の職員は勤務時間中胸章(局名、課名(課設置局に限る。)、役職名、氏名を記載することとし、形状、材質等については、所属長が適宜定めるものとする。)を左胸部の見やすい箇所に着用することを義務付ける旨の胸章着用要綱(同日達第一三号。以下「関東要綱」といい、東京要綱と併せて「各要綱」ともいう。)を定め、同年四月一日これを施行した。

4 東京郵政局長は、同年八月三〇日、同局管内の職員はその勤務時間中胸章(原則として、所属局所名、課名(課設置局に限る。)、役職名、氏名(姓のみでも差し支えない。)を記載することとし、その他の記載事項及び形状については、所属長が適宜定めることができる。)を左胸部の見やすい箇所に着用することを義務付ける旨の胸章着用要綱(同日達第三八号。以下「東京要綱」という。)を定め、同日これを施行した。

5 原告らの所属長である郵便局長又は貯金事務センター所長(以下「本件各郵便局長等」という。)は、各要綱に基づき、局所内の掲示板に胸章着用の目的及び必要性を周知する文書を掲示し、課長等の管理職は、本件各郵便局長等の命によって、部下職員に対し、それぞれの課におけるミーティング等を通じて、勤務時間中胸章を着用するよう指導したが、原告らは再々にわたる指導にもかかわらず胸章を着用しなかったので、本件各郵便局長等は原告らに対し、今後も胸章を着用しない場合はより厳正な措置を講じる旨警告し、原告らがこの警告にも従わずなお胸章着用を拒み続けたため、胸章を着用するよう職務命令を発し、原告らが右職務命令にも従わないので、職務命令違背を理由として文書により注意を行い、それでも従わないので訓告に付した(別紙(一)<略>のとおり)。

6 東京郵政局長は、平成九年二月二六日、同局管内の職員は勤務時間中胸章(原則として、所属局所名、課名(課設置局に限る。)、役職名、氏名、顔写真を表示する。ただし、その他の表示事項、形状等については、所属長が適宜定めるものとする。)を原則として左胸部の見やすい箇所に着用することを義務付ける旨の、胸章着用要綱の一部を改正する達(同日達第四九号)を定めることによって、胸章の表示事項に顔写真を加えることとする旨、東京要綱の改正を行い、同年四月一日これを施行した。

7 郵政大臣は、同年三月二六日、郵政省就業規則(昭和三六年二月二〇日公達第一六号)の一部を改正し、同規則二五条の二として、「職員は、特に許可があった場合のほか、勤務中胸章を着用しなければならない。」との、胸章着用を義務付ける旨の規定を新設し、同年四月一日これを施行した。

8 東京郵政局管内の本件各郵便局長等は、東京要綱の改正に基づき、局所内の掲示板に胸章着用の目的、東京要綱の改正内容及び新たな胸章を着用するために写真撮影を行うことを周知する文書を掲示し、課長等の管理職は、同局管内の本件各郵便局長等の命によって、部下職員に対し、ミーティング等を通じて、右文書と同様の内容を周知するとともに、速やかに顔写真の撮影又は提出に応じるよう指導し、顔写真の撮影又は提出に応じない職員については、所属長の判断により、便宜上、顔写真添付部分に「写真調整中」の文字を印字した胸章を作成して配布した上、平成九年四月一日以降、顔写真入り胸章を順次職員に交付した。これに対して、原告らは、<1> 顔写真の撮影又は提出には応じたものの、顔写真入り胸章を着用しなかったり、<2> 顔写真の撮影又は提出に応ぜず、「写真調整中」の文字を印字した胸章を着用したり、<3> 顔写真の撮影又は提出に応ぜず、「写真調整中」の文字を印字した胸章の着用も拒否したりしたので、課長等の管理職は、同局管内の本件各郵便局長等の命によって、<1>の対応をする者に対しては、顔写真入りの胸章を着用するよう、<2>の対応をする者に対しては、顔写真の撮影又は提出に応ずるよう、<3>の対応をする者に対しては、顔写真の撮影又は提出に応ずるとともに、「写真調整中」の文字を印字した胸章を着用するよう、それぞれ指導した。しかし、原告らは、再三にわたる指導にもかかわらず顔写真入り胸章を着用しなかったので、本件各郵便局長等は原告らに対し、今後も右指導に従わない場合はより厳正な措置を講ずる旨警告し、原告らがこの警告にも従わずなお顔写真入り胸章の着用を拒み続けたため、<1>の対応をする者に対しては、顔写真入りの胸章を着用するよう、<2>の対応をする者に対しては、顔写真の撮影又は提出に応ずるよう、<3>の対応をする者に対しては、顔写真の撮影又は提出に応ずるとともに、「写真調整中」の文字を印字した胸章を着用するよう、それぞれ職務命令を発し、原告らが右職務命令にも従わないので、職務命令違背を理由として文書により注意を行い、それでも従わないので訓告に付した(別紙(二)<略>のとおり)。

9 関東郵政局管内の本件各郵便局長等は、就業規則改正後も引き続き、自局所に所属する原告らに対し、前記5と同様に、警告、職務命令並びに職務命令に従わないことを理由とする注意及び訓告を行い、課長等の管理職も、同局管内の本件各郵便局長等の命によって、部下職員に対し、前記5と同様に指導を行った(別紙(三)<略>のとおり。前記5、8及び本項掲記の指導、警告、職務命令、注意及び訓告を合わせて、以下「本件胸章着用指導等行為」といい、右各項掲記の課長等の管理職と本件各郵便局長等を併せて、以下「本件管理職等」という。)。

二  主たる争点

1  各要綱及び本件胸章着用指導等行為の違法性の有無

2  原告森田秀幸(以下「原告森田」という。)及び原告千葉洋子(以下「原告千葉」という。)に対する権利利益の侵害行為の有無

三  原告らの主張の要旨

1  各要綱及び本件胸章着用指導等行為の違法性について

東京郵政局長及び関東郵政局長は、次のとおり違法であることが明らかな胸章着用の強制を内容とする各要綱を制定し、本件管理職等は、右各要綱に従って、原告らに対して胸章着用の強制をしたものである。

(一) 氏名権等の侵害

(1) 氏名は、各人の人格と深く結びついており、氏名を自己の意思に反して使用されない権利(氏名権)は人格権の中心をなすものとして、法的にも保護すべき必要性が強いものであることが、一般に認められている。そして、氏名を自己の意思に反して表示させることは、氏名を自己の意思に反して使用されることと全く異ならないから、氏名を自己の意思に反して表示されない権利は、氏名権の一場合に当たる。

したがって、本件における胸章着用の強制は、氏名権の侵害に該当する。

(2) プライバシー権は、「自己に関する情報について意に反して他人に取得、公表、使用されない権利」として定義することができるから、本件における胸章着用の強制のように、本人の意思に反する氏名の表示がプライバシー権の侵害になることは明らかである。

仮に、プライバシー権の対象となる個人情報が、本人の意思以外の、「一般人の感受性を基準にして、当該個人の立場に立った場合、公開を欲しないであろうと認められる事柄であること」というような客観的基準によって制限されると考えたときでも、胸章着用によって公表される個人情報は、直接には氏名であるが、勤務中の胸部への着用という態様から、必然的に、本人の容貌、勤務先及び氏名が組み合わされ、これらが一体として公表されるものであるところ、胸章着用による容貌、勤務先及び氏名の一体的公表については、一般人の感受性を基準にしても公開を欲しない事柄であって、プライバシー権の保護の対象となる。

したがって、いずれの観点から言っても、本件における胸章着用の強制は、プライバシー権の侵害に該当する。

(3) さらに、改正後の東京要綱に基づく顔写真入り胸章の着用強制は、次のとおり、プライバシー権の侵害としてもその程度はより深刻なものとなるし、肖像権の侵害にも当たることが明らかである。

ア 顔写真入りの胸章は、郵便局という世界最大の金融機関に勤務している原告らにとって、誘拐、強盗等の犯罪の標的とされる危険を生じさせるから、一般人の感受性を基準として見た場合でも、容貌、勤務先及び氏名が一体となった形でのこれらの事柄は、顔写真入りでない従前のものにも増して公開を欲しない事柄であって、より高い程度においてプライバシー権の侵害に当たる。なお、職員が顔写真をいったん被告に提出すれば、右顔写真は、その後目的外使用の対象となるおそれがあるから、プライバシー権の侵害の度合いはより深刻になるものである。

イ 何人も承諾なく自己の容貌を撮影、公表されない権利を有し、右権利は、一般に肖像権と呼ばれているところ、改正後の東京要綱に基づく顔写真入り胸章の着用強制は、本人の承諾なく顔写真を公表する行為と同じであり、顔写真の提出強制は、本人の承諾なくその容貌を撮影する行為と同じである。

したがって、原告らは、改正後の東京要綱に基づく顔写真入り胸章の着用強制及び顔写真の提出強制によって、肖像権を侵害されたものである。

(4) 氏名権、プライバシー権ないし肖像権は、いわゆる人権の包括条項としての憲法一三条に根拠付けられるものであるから、これら権利を侵害する胸章着用の強制は、憲法一三条に抵触し、違憲の推定が働くものというべきである。したがって、被告は、胸章着用の強制による右各権利の侵害について合憲であることの根拠を主張立証する必要があるが、憲法一三条が精神的自由に属する憲法の根本原理としての優越性を持つものであることからすると、単なる目的と手段の正当性といった抽象的なものではなく、胸章非着用には明白かつ現在の危険があるとか、胸章着用以外の他に選び得るより制限的でない手段がないとかの点について、具体的な主張立証を要するものとなるところ、被告からのこのような主張立証はない。

(二) 思想・良心の自由の侵害

郵政当局は、昭和三五年ころから全逓信労働組合(以下「全逓」という。)を敵視する労務管理を行い、昭和三七年には郵政大臣が全逓分裂の工作を行って第二組合の結成を促した。全逓は、激しい労使対立の中、昭和四六年七月一日発出の企第一号において胸章を労働者の思想改造をねらった攻撃であり「踏み絵」であると位置づけ、胸章着用を拒否する闘争方針を明らかにした。当局は、その後も第二組合の育成と全逓組合員に対する脱退工作を続け、胸章着用拒否者に対して様々な人事差別を行い、労使関係は更に悪化した。全逓は、昭和五三年末の反マル生闘争に当たり、当局の胸章着用の強制を不当労働行為(支配介入)と位置づけ、公共企業体等労働委員会に救済申立てをした。その後、全逓執行部は、反マル生闘争での大量処分後に当局と手打ちをして次第に労使協調路線に転換し、昭和五七年一二月二二日発出の企第一〇一号において胸章着用拒否の方針を変更したが、そこでもなお、胸章のねらいを労務管理の一環としての自己管理にあると位置づけていた。このような歴史的経緯に照らせば、当局の胸章着用の強制の目的が、闘う労働者をあぶり出して不利益を与え、嫌がらせをするための道具として用いることにあるのは明らかであり、仮に被告にそのような意図がなかったとしても、少なくとも郵政労働者の多くを組織する全逓は、胸章を思想改造をねらった「踏み絵」であり、個人の尊厳を侵害する労務管理の象徴として位置づけ、原告ら郵政労働者もそのように解釈してきたのである。そうである以上、原告らにとって胸章着用は、当局に対する、従順で画一的な労働者になることへの積極的ないし消極的な賛同という思想の表明を意味することになる。

したがって、胸章着用の強制は、思想・良心の自由(憲法一九条)を侵害する。

(三) 労働基本権の侵害

胸章着用の強制の真の目的は、闘う労働者をあぶり出し不利益を与えて嫌がらせをするための道具として用いることにあることは前記(二)のとおりであり、したがって、胸章着用の強制は、全逓又は現在所属する組合を通じて当局の施策に反対の意思を表明する組合活動の自由及び真の労使対等を目指して新しい組合を作ろうとする団結権を内容とする労働基本権への侵害となる。

(四) 法の下の平等の侵害

また、女性労働者にとって胸章着用は、左胸部への無用な注目を集め、極めて不快である上、女性によっては胸部自体が邪魔をして胸単が跳ね上がった形となって氏名表示の意味すら持たない場合があるから、身体的、精神的に仕事に支障を来すことは必定である。このように、胸部への胸章着用の強制は、女性労働者に対する無用な嫌がらせ(セクシャル・ハラスメント)にもなりかねず、法の下の平等(憲法一四条)の侵害にもなる。

(五) 被告の主張に対する反論

被告は、胸章着用の目的は「お客さまサービス」、「職員としての自覚と連帯感の醸成」、「防犯上の効果」にあると主張するが、次のとおり、胸章着用には被告主張の目的に沿う効果はない。

(1) 「お客様サービス」について

郵便局の窓口で職員と相対した顧客は、職員の胸章を見て氏名を覚えたり、顔写真を本人と同じかどうか見比べることはまずない。現実的に担当職員の氏名が必要になることがあるのは一たん郵便局を離れた後で問題があると思った場合であるが、大ていの顧客にとって担当した職員の胸章を思い出してその職員の氏名を特定するなどということは至難の業である。自宅等に訪問を受けて郵便局の職員と相対する顧客にとっても事情は同じである。電話で応対する顧客にとっては胸章は全く無意味である。このように、そもそも顧客にとって胸章に氏名及び顔写真を表示することは現実的にはほとんど意味がない。

仮に、「お客様サービス」という観点から胸章着用が有効であるとしても、その着用が必要となる職員は窓口等で顧客と応対する職員に限られるのであるから、顧客と応対しない部署の職員にまで一律に胸章着用を強制する必要はない。

(2) 「職員としての自覚と連帯感の醸成」について

職員としての自覚と氏名を表示するか否かとの間には、合理的な関連性は見出し難い。むしろ、新聞等で報道された犯罪や不祥事を起こした職員はいずれも胸章を常時着用している職員であり、胸章着用により職員としての自覚が高まったとは到底いえない。

また、同じ胸章をしているからといって連帯感が生まれるなどということは考えられないし、氏名が分かれば親近感を感じるなどということもこじつけである。郵政の労働現場ではむしろ胸章着用を強制して踏み絵を踏ませることにより、職員間に分断と亀裂を持ち込み、職員の連帯を阻害しているのが実情である。もし、職員としての自覚や連帯感の醸成が目的であれば、全職員に胸章を着用させるべきであるのに、被告の高級官僚は胸章を着用していないし、「ゆうメイト」などの職員は顔写真なしの胸章を着用している。

(3) 「防犯上の効果」について

「防犯上の効果」は、本件訴訟の提起後付け加えられた、後付けの理由である。防犯上最も重要なのは庁舎への出入りの際であるが、胸章は勤務時間中の着用が求められており、通勤時には誰も着用していないから、庁舎への出入りの際に胸章によって職員か否かを区別する余地はない。また、郵便局では極めて多様な交代制勤務が行われているため、庁舎内には、ほとんどの時間帯において、勤務に入る前あるいは勤務終了後の、胸章を着用する必要のない職員が存在することになるから、胸章着用の有無によって職員と部外者を識別することは困難である。加えて、東京貯金事務センター以外の職場では、職員は勤務時間中制服を着用しており、職員と部外者の識別は制服によってできるのであり、胸章を識別材料とする必要性も合理性もない。東京貯金事務センターには制服がないが、それは当局が防犯上職員と部外者を識別する必要性が低いと考えている証左であり、仮にその必要性が高まったのであれば制服を復活すれば足りる。

2  原告森田及び同千葉に対する権利利益の侵害行為について

(一) 原告森田は、郵政職員で組織する労働組合の一つである郵政労働者ユニオン多摩地方支部執行委員として、従前、多摩郵便局当局との間で「単局窓口」と称する事実上の交渉を行っていたが、同郵便局の労務担当者である土屋隆一総務課課長代理(以下「土屋課長代理」という。)は、原告森田に対し、平成九年二月及び同年四月の二回にわたり、胸章を着用しない限り単局窓口に応じない旨告知した。これは、原告森田の郵政労働者ユニオン多摩地方支部執行委員としての正当な組合活動を妨害するものであるから、その点で不法行為を構成する。

(二) 原告千葉は、平成八年一〇月二九日及び同月三〇日に他の郵政局管内における胸章着用に関する達の出発状況を問い合わせるため電話をかけたところ、東京貯金事務センター所長は、同年一二月二七日、これを理由として原告千葉を訓告に付した。これは、原告千葉が胸章着用を拒否していること及び本件訴訟を提起したことから、同原告に嫌がらせをする目的で行われたものであり、原告千葉の人格権(理由のない不利益な措置を受けない権利)を侵害し名誉を毀損するものとして不法行為を構成する。

3(一)  被告は、以上の1及び2の次第で、東京郵政局長、関東郵政局長、本件管理職等の、被告公務員らの故意又は過失による違法な公権力の行使によって、原告らの権利利益を侵害したものであるから、国家賠償法一条一項に基づき、これによって原告らが被った損害を賠償すべき義務がある。

(二)  原告らは、右違法な公権力の行使によって、それぞれ著しい精神的苦痛を受けたものであるところ、これを金銭に評価すれば、原告各自につき三〇万円を下らない。原告らは、原告ら代理人両名に対し、本訴提起のための報酬として、各自三万円を支払うことを約したところ、右弁護士費用は右違法な公権力の行使と相当因果関係にある損害に当たる。

(三)  以上により、原告らは、被告に対し、損害賠償として、原告ら各自につき、慰謝料三〇万円、弁護士費用相当額三万円、以上合計三三万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

四  被告の主張の要旨

1  各要綱及び本件胸章着用指導等行為の違法性について

(一) 胸章着用の義務付けの正当性

(1) 職員に対し胸章着用を義務付けたのは、対外的には、利用者である国民にサービスを提供する取扱者の氏名等を明らかにし、もって利用者である国民の信頼を得ることにより、より一層のサービスを図ることを、対内的には、組織運営に当たって、自己の氏名を明らかにすることにより、職員自身の職責の自覚を促し、自己規律及び職員間の連帯感の醸成を図ることを目的とするものである。すなわち、郵政事業を取り巻く社会・経済環境が厳しさを増す中で、職員一人一人が郵政事業の使命を認識し、自己の職責の重大性について自覚を持ち、職員間の連帯感を高めるとともに、利用者である国民に信頼され、安心して利用され、親しまれるサービスを提供することが要請されていることから、こうした要請に応えようとするものである。加えて、胸章は、庁舎内における職員と部外者との識別の手段として防犯上有効であり、このことも胸章着用の目的となっている。

特に、都市化が進んだ東京郵政局管内においては、胸章に顔写真を表示することによって、利用者が、職員であることを容易にかつ確実に認識することができるなど、胸章着用の前記目的の達成が容易になり、胸章着用がより効果的なものとなることが期待される。

なお、胸章着用は、全職員が一体となって取り組んでこそ本来の趣旨を全うすることができるのであるから、利用者に接する職員であるか否かによって胸章を着用すべきか否かを区別する理由は全くない。

一方、各要綱によって着用を義務付けた胸章は、縦約三〇ミリメートル、横約五〇ミリメートル程度の形状で、勤務時間中に限り左胸部の見やすいところに着用すれば足り、胸章の表示事項も、所属局所名、課名、自己の氏名等、職員と業務との関連を明らかにする上で必要最小限度のものに限られているから、胸章を着用する職員に対して特別過重な負担や不利益を強いるものではない。また、改正後の東京要綱によって着用を義務付けた顔写真入り胸章も、縦約八五ミリメートル、横約五五ミリメートル(顔写真サイズ 縦約三〇ミリメートル、横約三〇ミリメートル)という形状で、その表示事項も、顔写真のほか、所属局所名、課名、自己の氏名等、職員と業務との関連を明らかにする上で必要最小限度のものに限られている上、重さは従来のものよりも軽く、職務を遂行する上で何ら支障が生じる形状ではない。さらに、胸章は、氏名を表示する方法として最も簡易で有効なものであって、顔写真入りのものを含め、民間企業や官公庁等で活用され、一般的に認められているものであって、着用者に格別の精神的苦痛を与えるものでもない。

以上のような胸章着用の目的及び態様に照らせば、職員に対し胸章着用を義務付けることは、郵政事業の使命を達成する上で合理的かつ極めて有効な制度であり、何ら違法はない。

(2) 本件胸章着用指導等行為は、原告らの上司である本件管理職等が、各要綱を受けて、服務統督権に基づき、原告らに対し胸章着用を命じ、着用の徹底方を指導したもので、何ら違法はない。

(二) 原告らの主張に対する反論

(1) 原告らは、胸章着用を義務付け、その着用を行わせることは、氏名権を侵害する旨主張している。

しかし、企業組織の運営上、企業組織内における個々の構成員を識別する必要があり、構成員の活動が他者と接する対外的な場面においては、企業組織の構成員とそれ以外の者とを識別する必要性があるところ、特定人を他の者とを識別するものとしては氏名に勝るものはなく、企業組織の一員である以上、氏名は組織運営上及び構成員の活動上必要不可欠なものである。

このように、勤務時間中に職務遂行に際して氏名を表示する場合、氏名そのものが極めて社会的なかかわりを有する事柄であって、少なくとも職場においては、氏名を表示するか否かについて、氏名を自己の意思に反して公表されない権利というものが法的に保護される対象となるものではないというべきである。

(2) 原告らは、本人の意思に反する氏名の表示がプライバシー権の侵害になる旨主張している。

しかし、プライバシー権とは、他人に知られたくない私的事柄をみだりに公表されない権利であるところ、プライバシー権の侵害に対し法的な救済が与えられるためには、<1> 私生活の事実又は私生活の事実らしく受け取られるおそれのある事柄であること、<2> 一般人の感受性を基準にして当該私人の立場に立った場合公開を欲しないであろうと認められる事柄であること、<3> 一般の人々には未だ知られていない事柄であることを必要とし、このような公開によって、当該私人が実際に不快、不安の念を覚えたことを必要とすると考えられる。ところが、氏名は、戸籍に記載された公証力のある名称であるとの機能を考慮すれば、一般の人々にいまだ知られていないものとは言えないし、一般人の感受性を基準にしても、氏名を公表されることを欲しないということはできない。

したがって、胸章着用による氏名表示について、そもそも氏名がプライバシー権の対象として法的保護の与えられるべきものに当たらないことは明らかである。

(3) 原告らは、改正後の東京要綱に基づく顔写真入り胸章について、プライバシー権の侵害としての程度がより深刻なものとなる旨主張している。

しかし、プライバシー権とは、他人に知られたくない私的事柄をみだりに公表されない権利であることは前記のとおりであるところ、本件で問題となっている容貌(顔)については、勤務時間中において常に現されているものであり、また、現すことを前提として勤務が行われているものであるから、既に現されている容貌について、自己の胸部に胸章の表示事項の一つとして着用することが、他人に知られたくない私的事柄をみだりに公表されることに当たらないことは明らかである。

したがって、顔写真、勤務先、氏名を胸章の表示内容として勤務時間中に着用することは、そもそも私生活上の問題ではなく、一般人の感受性を基準にして公開を欲しない事柄でもないから、仮に、犯罪の標的とされる可能性をすべて否定することはできないとしても、プライバシー権として法的保護の対象となるものではない。なお、原告らは、職員が顔写真をいったん被告に提出すれば、右顔写真は、その後目的外使用の対象となるおそれがあるとも主張するが、被告は、このようなことのないように種々の措置を講じており、原告らの主張は憶測に基づくものに過ぎない。

(4) また、原告らは、改正後の東京要綱に基づく顔写真入り胸章について、顔写真入り胸章の着用を求めたり、顔写真の提出を求めたりすることが肖像権の侵害に当たる旨主張している。

しかし、肖像権とは、承諾していないのに自己の容貌・姿態をみだりに撮影され、これを公表されないという法的利益と解されるところ、胸章に顔写真を表示することによる容貌の公表は、そもそも当該職員の容貌が他人の目にさらされている場所での表示であり、当該胸章に表示された写真によって新たに当該職員の容貌を第三者に公表するものではないし、職員の顔写真付き胸章を作成するに当たって、職員の容貌を無断で撮影したり、職務命令を発して職員の意思に反して撮影をしたことはない。また、顔写真の提出を求める際には胸章の作成という目的を示しているのであるから、顔写真の提出は、本人の意思に反して無断で撮影されない権利の侵害と同視し得るものではない。

したがって、肖像権侵害をいう原告らの主張は、およそ肖像権の侵害たり得ない行為について、殊更に肖像権の侵害を主張するものというほかなく、失当である。

(5) このほか、原告らは、胸章着用を義務付け、これを行わせることは、思想・良心の自由を侵害する旨主張するが、本件における胸章の表示事項は、局所名、所属課名、役職名、氏名等であって、いずれの事項も、およそ人の精神的活動とは全く無関係のものであって、胸章の着用によって原告らの思想・良心の自由が侵害されるものでないことは明らかである。

また、原告らは、労働基本権の侵害をも主張するが、被告における胸章着用の目的が原告ら主張のようなものでないことは前記(一)のとおりである。その他、原告らは、憲法一四条違反等をも主張するが、これら主張に理由がないことは明らかである。

3  原告森田及び同千葉に対する権利利益の侵害行為について

(一) 本件訴訟において、原告らが被告の違法行為として従来主張してきたものは、各要綱の制定及びこれに基づく本件管理職等による本件胸章着用指導等行為であるのに対し、原告森田及び同千葉が新たに被告の違法行為として追加してきたものは、原告森田については多摩地方支部執行委員を務める郵政労働者ユニオンとの関係における組合活動の妨害行為、原告千葉については勤務時間中に離席したことに対する問責の行為であるから、いずれも、本件胸章着用指導等行為とは明らかに異なる社会事象であって、従来の主張に基づく請求と右追加主張に基づく請求とでは訴訟物を異にする。

したがって、原告らの右追加的主張は、訴えの追加的変更に当たるが、従来の請求の主たる争点は各要綱の制定及びこれに基づく本件胸章着用指導等行為の違法性の有無であるのに対し、新たな請求の主たる争点は組合活動の妨害行為の有無又は勤務時間中の無断離席行為の有無であって、主要な争点が共通であるとはいえないし、主たる証拠資料が共通であるともいえず、従来の請求と新たな請求とでは請求の基礎に同一性がない。

そうすると、右訴えの追加的変更は許されないから、右追加的主張は許されない。

(二) 仮に右追加的主張が許されるとしても、次のとおり原告森田及び同千葉の主張はいずれも失当である。

(1) 原告森田関係

郵政省と郵政労働者ユニオンとの間においては、現在、団体交渉に関する協約締結の「訓練助走」が行われている段階であり、郵便局長等の支分部局長にはいまだ団体交渉等に関する郵政大臣の権限の委任が行われていない。多摩郵便局では、従前、原告森田(多摩郵便局に勤務する職員で郵政労働者ユニオンに加入していたのは、原告森田のみであった。)から質問があれば、労務担当者が対応してできる限り説明を行っていたが、これは、労働協約に基づかない、事実上の話し合いに過ぎないものである。したがって、郵政労働者ユニオンとの関係における組合活動の妨害行為をいう原告森田の主張は、事実を歪曲したもので、被告に何ら違法はなく、原告森田の主張は失当である。

また、そもそも、土屋課長代理は、在任中、原告森田が説明を求めに来たときに胸章不着用を事由として説明を拒否するようなことは一度もしていないから、この点でも、原告森田の主張は失当である。

(2) 原告千葉関係

原告千葉は、平成八年一〇月二九日及び同月三〇日に、四国郵政局、中国郵政局、信越郵政局、北陸郵政局に対し、勤務時間中に同原告の職務内容とは何ら関係のない私的事柄に関し、合計二〇分間電話をした。そのため、東京貯金事務センター所長は、右時間帯について欠務処理をし、原告千葉の将来を戒め、指導育成のために訓告に付したのであるから、被告に何ら違法はなく、原告千葉の主張は失当である。

第三当裁判所の判断

一  争点1(各要綱及び本件胸章着用指導等行為の違法性の有無)について

1  争いのない事実(前記第二の一)、<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(一) 被告(郵政省)が国営企業として営む郵政事業は、郵便、郵便貯金及び簡易生命保険の各役務をあまねく公平確実に、かつ、なるべく安い料金で提供することによって、国民の経済生活の安定を図り、公共の福祉を増進することを目的としている(郵便法一条、郵便貯金法一条、簡易生命保険法一条等)。郵政事業においては、このような事業の性質上、多数の職員が不特定多数の国民と直接接触して役務を提供する業務に携わっている。また、その事業経営には特別会計が設置されているが、これは、郵政事業を企業的に経営し、その健全な発達に資するためである(財政法一三条、郵政事業特別会計法一条)。

(二) 郵政事業は、平成三年当初から、(1) 郵便事業については、民間宅配業者との競合やファックス等の電気通信メディアとの代替関係、(2) 郵便貯金事業については、金利の自由化や低金利を背景とする他の多様な金融商品に対する人気の高まり、(3) 簡易生命保険事業については、運用利回りが低下する中での他の分野からの生命保険事業への新規参入などがあって、いずれの事業についても民間企業との競争が激化したことにより、将来的な見通しを含めて事業環境は厳しさを増していた。

(三) 東京郵政局及び関東郵政局では、従前から職員に対し胸章着用の指導をしていたが、右のような事業環境の変化に対応して、事業収入を確保し、事業経営の効率化・合理化を推進するための施策の一つとして、胸章着用について改めて見直しを行った。その結果、関東郵政局長においては平成三年三月二六日関東要綱を、東京郵政局においては同年八月三〇日東京要綱を、それぞれ制定して、同局管内の職員に対する胸章着用の指導の統一を図ったが、胸章着用を義務付けたのは、対外的には、利用者である国民にサービスを提供する取扱者の氏名等を明らかにし、もって利用者である国民の信頼を得ることにより、より一層のサービスを図ることに、対内的には、組織運営に当たって、自己の氏名を明らかにすることにより、職員自身の職責の自覚を促し、自己規律及び職員間の連帯感の醸成を図ることに、その目的があった。

(四) 各要綱によれば、胸章は、勤務時間中に被服の左胸部の見やすい箇所に着用することとされ、胸章には、原則として、所属局所名、課名、役職名及び氏名を記載することとされているもので、原告らが着用を命じられた胸章は、縦約三〇ミリメートル、横約五〇ミリメートルの大きさである。

(五) その後、郵政事業は、郵便事業については、民間宅配業者の事業拡大や電子メール等の電子通信メディアを利用したサービスの広範囲な展開があり、郵便貯金事業及び簡易生命保険事業については、金融システムの改革(いわゆる日本版ビックバン)が目前に迫るなど、民間企業との間に従来にも増して厳しい競争が予測される状況にあり、また、政府の最重要課題である行財政改革の推進に伴い、行政組織のスリム化が求められる過程で、郵政事業の経営形態も検討課題として採り上げられるに至った。

(六) 東京郵政局では、右のとおり郵政事業を取り巻く社会・経済環境が一段と厳しさを増す中で、平成八年六月の定期人事異動後の新体制において、利用者の目線に立って仕事をする、利用者の立場で考えるとの基本方針を定め、その具体化の一つとして、職員の胸章に顔写真を表示することとし、同年一〇月一日からこれを実施した。そして、平成九年二月五日、「地域とともに“我が東京”との標語を掲げて平成九年度経営方針を策定し、郵便局が地域社会の中で真に信頼され、親しまれ、地域になくてはならない存在となるよう利用者にその有用性を認識してもらうための施策の一つとして、同局管内のすべての職員の胸章に顔写真を表示することとし、同月二六日、東京要綱を改正してその旨規定したが、これは、胸章に顔写真を表示することにより、胸章着用の義務付けの前記目的の達成を容易にし、胸章着用をより効果的なものとすることを目的とするものであった。

(七) 改正後の東京要綱によって原告らが着用を命じられた胸章は、縦約八五ミリメートル、横約五五ミリメートルの大きさで、顔写真は、縱横とも約三〇ミリメートルの大きさであり、重さは従来のものよりも軽くなっている。胸章の表示事項は、顔写真を除いて従来と同様である。

2  郵政事業に従事する職員は、国家公務員として、法令及び上司の命令に従う義務(国家公務員法九八条一項)を負い、このことは、郵政省就業規則においても、「職員は、その職務を遂行するについて、法令及び訓令並びに上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。」(五条二項)と定められているとおりである。そして、本件胸章着用指導等行為は、郵政大臣からの委任によって服務統督権を与えられている本件各郵便局長等が、各要綱(これらは、東京郵政局長ないし関東郵政局長が、郵政大臣からの委任によって与えられた服務統督権に基づいて発した訓令としての性格を有するものであることが明らかである。)を受けて、自ら又は課長等の管理職を通じて、右服務統監権の行使として、原告らに対し胸章の着用を命じ、着用の徹底方を求めたものにほかならない。

ところで、国営企業にあっても、服務規律を包含する企業秩序は、企業の存立と事業の円滑な運営の維持のために必要不可欠なものであるから、国営企業は、この企業秩序を維持確保するため、これに必要な諸事項を一般的に定め、あるいは具体的に職員に対する命令その他の措置をとることができることはいうまでもなく、職員は、任用による国営企業の職員としての勤務関係の成立に基づき、企業秩序遵守義務を負い、国営企業の運営上必要で合理的なものである限りにおいて、企業秩序に関する一般的な定め及びこれに基づく具体的な命令その他の措置に服するべき義務があるものといわなければならない。

したがって、原告らは、企業秩序に関して服務統督権の行使として行われる、郵政事業の運営上必要で合理的な、訓令、命令その他の措置に服するべき義務があるものというべきところ、各要綱による胸章着用の義務付けが、郵政事業の運営上必要で合理的なものであるか否かが次の問題である。

3  そこで、各要綱による胸章着用の義務付けが、郵政事業の運営上必要で合理的なものであるか否かを検討すると、以下のとおりである。

(一)(1) 関東郵政局長及び東京郵政局長が各局管内の職員に対し胸章着用を義務付けた目的は、前記1(三)判示のとおりであるが、郵便局に勤務する職員が取り扱う事項は、信書や貯金、保険等プライバシーに関わる情報や金銭など、利用者が重大な関心を寄せる事柄であるから、職員は、利用者に対し胸章により氏名を表示して責任の所在を明示することにより、その取扱いにおいて誤りなきを期すよう自戒し、職責の自覚が促されることは明らかであり、他方、利用者は、取扱者が氏名を明らかにしていること自体に安心感、信頼感を抱き、質問もしやすく、取扱者に対する親しみもわくといえる。

対内的な面に限っても、組織運営に当たって、職員自身の職責の自覚を促し、自己規律及び職員間の連帯感の醸成を図ることは、企業運営上不可欠なことであることは明らかであって、このような目的を達成する手段として胸章着用の義務付けをすることには合理性が認められる。なお、原告らは、窓口等で利用者と応対することのない部署の職員にまで一律に胸章着用を義務付ける必要はない旨主張するが、職員自身の職責の自覚を促し、自己規律及び職員間の連帯感の醸成を図ることは、窓口等で利用者と応対する職員であるか否かにかかわらないものであるし、利用者と直接接触のない職場の職員であっても、勤務時間中に胸章を着用することにより、勤務時間の内外を明確に意識して職務遂行に専心精励するよう心理的に規制されるものと考えられるから、原則として全職員に胸章着用を義務付けることとすることには合理性が認められる。

以上のほか、胸章は、庁舎内における職員と部外者との識別の手段として防犯上有効である旨の被告の主張も首肯し得るものである。

(2) また、胸章の表示事項に顔写真を加えた目的は、前記1(六)判示のとおりであるが、胸章に顔写真が表示されれば、胸章着用者が胸章に表示された氏名を持つ職員本人であることが確実なものとなるため、利用者は、より安心感、信頼感を抱くことができるし、職員は、氏名しか表示されていない胸章を着用する場合以上に強く、自戒の念や職責の自覚が促される関係にあるものといえる。その他、胸章に顔写真を加えることは、対内的な面及び防犯上の面についても、前記(1)判示の目的を達成する上で相当の効果があることも、十分首肯し得ることである。

(3) 原告らは、胸章着用には前記目的に沿う効果がない旨主張する。なるほど、利用者が郵便局の窓口で応対した職員の胸章を見て氏名を記憶し、郵便局を出た後でその氏名を思い出して問い合わせをするというようなことは、事例としては余り多くはないかも知れないが、およそあり得ないこととはいえない上、胸章により氏名が明らかにされていれば、利用者としては、窓口で質問等をする際にも心理的抵抗が少ないし、そもそも、利用者は、胸章により氏名等が明示されていること自体に、職員が誤りなく信書や金銭等の取扱をしてくれるであろうとの安心感、信頼感を抱くものと考えられる。また、利用者は、サービスを提供する側で自ら進んで氏名等を明らかにして責任の所在を明確にしていること自体に、利用者を大切に扱おうとする姿勢を感じ、それによって満足感を抱くものとも考えられるから、胸章が利用者の信頼獲得及び顧客満足の観点から有効な手段であることは否定できないものといえる。

(4) さらに、郵政事業は、平成三年当初から民間企業との競争が激化する一方で、行財政改革の推進に伴い郵政事業の経営形態についての議論が俎上に上るなど、世論上も厳しい状況にあったことは、前記1(二)、(五)判示のとおりであるし、<証拠略>によれば、胸章着用の指導は、従来から職員の接遇の一環として行われていたところ、郵政事業を取り巻く右のような環境の変化に対応して、前記1(三)判示の目的のため、各要綱を発出して胸章着用の指導の徹底を図ったこと、東京要綱については、前記1(六)判示の目的のため、これを改正して顔写真を胸章の表示事項に加えたことが認められるから、各要綱による胸章着用の義務付け及び東京要綱の改正による胸章への顔写真の表示の追加は、以上のような点からも、事業運営上の必要性に基づくものということができる。

(5) 本件における胸章の形状、表示事項及び着用態様は、前記1(四)、(七)判示のとおりであるところ、<証拠略>によれば、近時、民間企業であると官公庁であるとを問わず、一般社会生活上、勤務時間中の従業員ないし職員が勤務先名、役職名、氏名等を表示事項とする胸章を着用する例は多数に上っており、改正後の東京要綱におけるのと同様な顔写真入り胸章を着用している例も少なくないことが認められる。

(二) 以上の諸点にかんがみると、各要綱による胸章着用の義務付けは、これに顔写真を追加したことを含めて、郵政事業の運営上必要で合理的なものと認めることができる。

4  原告らの主張について

(一) 氏名権、プライバシー権及び肖像権の侵害について

(1) 氏名は、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であって、人格権の一内容を構成するものであるが、他面、氏名は、個人を他人から識別・特定する機能を有する最も基本的なものであって、氏名の持つこの機能は外部に表示されることによって初めて発揮されるものであるから、氏名は、社会生活上、本来、外部への表示を予定されているものということができる。

氏名が有している、外部への表示を予定された個人の識別・特定の手段としての、このような属性にかんがみると、企業が構成員の氏名の表示の措置を講ずることは、それが事業運営上必要かつ合理的なものである限り、違法性を欠くものとして社会通念上容認されているものというべく、したがって、その反面において、このような氏名の表示によって右構成員の氏名にかかわる何らかの法的な利益が侵害されたということはできない理となる。

そして、本件における胸章着用による氏名等の表示が郵政事業の運営上必要かつ合理的なものであることは前記3判示のとおりであることからすれば、これをプライバシー権の問題というか、氏名権の問題の一場合というかはともかくとして、胸章着用によって原告らの氏名の表示にかかわる法的な利益を侵害されたものということができないことは明らかである。

(2) 原告らは、改正後の東京要綱に基づく顔写真入り胸章について、顔写真が加わることによってプライバシー権の侵害としての程度がより深刻なものとなる旨主張しているが、この場合の顔写真の表示は、現にその場に容貌を露出して社会生活を営んでいる当該本人の胸部にある胸章の表示事項の一つとして行われているのであるから、プライバシー権というものをどのように解するにせよ、このような態様の顔写真の表示によってプライバシー権が侵害されたものということはできず、そこに顔写真の公表に係る法的な利益の侵害を観念することは困難というべきである。

また、原告らは、職員が顔写真をいったん被告に提出すれば、右顔写真はその後目的外使用の対象となるおそれがあるとも主張するが、<証拠略>によれば、胸章作成に使用された写真及びネガフィルムは、所属長の責任において厳重に保管することとされ、職員から返戻を求められた場合にはこれに応じることとされていること、右写真等については、胸章作成以外の目的での使用を厳禁するよう指導されていること、一時であっても被告において顔写真を所持することを望まない職員に対しては、職員が直接顔写真を胸章作成業者に郵送し、胸章の作成後に業者から直接職員に返送させるとか、職員の目の前で顔写真を胸章に貼り付けパウチするなどの対応をしていたこと、以上の事実が認められ、右認定事実によれば、原告らの懸念する目的外使用のおそれは極めて低いものというべきであり、これによって原告らの受ける精神的苦痛は結局漠然とした不安感にとどまるものといえるから、これを根拠に、顔写真の提出を命じられないことについて法的な利益があるということはできない。

(3) 原告らは、顔写真入りの胸章の着用強制は、本人の承諾なく顔写真を公表する行為と同じであり、顔写真の提出強制は、本人の承諾なくその容貌を撮影する行為と同じであって、原告らの肖像権を侵害するものである旨主張する。

なるほど、人は、自己の容貌が撮影された写真を無断で公表されないこと及び自己の容貌を無断で撮影されないことについて、不法行為法上の保護を受け得る法的利益を有するものというべきであるが、それは、他人の容貌を撮影した写真を本人に無断で公表することは、被撮影者にとって、その容貌が撮影された写真が自己のあずかり知らぬところで公表されることに、無断で他人の容貌を撮影する行為は、その性質上、被撮影者にとって、自己のいかなる態様の容貌が撮影され、その写真がどのように使用されるかが不明であるため、それだけで一般人であれば精神的苦痛を感じるのが通常であることに、それぞれ関係しているものと考えられる。これに対し、顔写真入りの胸章を着用することは、自己の容貌・姿態がもともと他者の目にさらされている、まさにその時に、自己の胸部に顔写真を表示する行為であるから、右無断公表行為とはその性質を全く異にするものであるし、胸章に添付するために職員に顔写真の提出を命じる行為は、被撮影者自身、撮影される自己の容貌がいかなる態様のものであるかをあらかじめ認識している上、写真の使途も事前に明示されているのであるから、右無断撮影行為と同列に論じるべきものではない。

そうである以上、顔写真入りの胸章の着用を命ずること及び胸章に添付するための顔写真の提出を命ずることは、いずれも肖像権として独自に保護するべき法的利益を侵害するものとはいえないというべきである。

(4) なお、原告らは、憲法一三条への抵触をいうが、その主張する氏名権、プライバシー権及び肖像権の侵害そのものを認めることができないことは前記(1)ないし(3)判示のとおりであるから、右主張は前提を欠き、失当に帰する。

(二) 思想・良心の自由の侵害について

原告らは、胸章着用の強制の目的は、闘う労働者をあぶり出し不利益を与えて嫌がらせをするための道具として用いることにあり、仮に被告にそのような意図がなかったとしても、全逓において胸章は思想改造をねらった「踏み絵」として位置づけられてきたので、原告らにとって、胸章着用は、当局に対する、従順で画一的労働者になることへの賛同という思想の表明を意味することになるから、胸章着用の強制は、原告らの思想・良心の自由を侵害するものであると主張する。しかし、胸章着用の義務付けの目的が右のようなものでないことは、先に認定したとおりであるから、思想・良心の自由の侵害をいう原告らの主張もまた、その前提を欠き、失当に帰する。

(三) 労働基本権の侵害について

この点に関しても、原告らは、胸章着用の強制の目的は、闘う労働者をあぶり出し不利益を与えて嫌がらせをするための道具として用いることにある旨主張するが、胸章着用の義務付けの目的が右のようなものでないことは前記(二)判示のとおりであるから、労働基本権の侵害をいう原告らの主張もまた、その前提を欠き、失当に帰する。

(四) 法の下の平等の侵害について

原告らは、胸章の胸部への着用強制は、女性労働者に対する無用な嫌がらせ(セクシャルハラスメント)であり、法の下の平等に違反すると主張するが、先に認定したとおり、近時、民間企業であると官公庁であるとを問わず、勤務時間中の従業員ないし職員が胸章を着用している例は多数に上っており、胸部への着用は、着用態様として社会通念上も相当なものというべきであるから、原告らの右主張は採用することができない。

5  以上の次第であるから、各要綱による胸章着用の義務付けは、郵政事業の運営上必要かつ合理的なものであって、何ら違法な権利侵害に当たらないものというべきである。そして、各要綱に基づき、本件管理職等は、事前に局内の掲示板に文書を掲示して胸章着用が義務付けられていることやその目的を周知した上、ミーティング等において胸章着用を指導し、これに応じない原告らに対して個別に指導を行っていること、訓告を行う前に繰り返し警告や注意をしていることは、前記争いのない事実(第二の一の5、8及び9)のとおりであるところ、このような経緯の下で行われた本件胸章着用指導等行為について、これを違法と認めるに足りる証拠はない。

二  争点2(原告森田及び同千葉に対する権利利益の侵害行為の有無)について

1(一)  <証拠略>によれば、原告森田が土屋課長代理に対し、平成九年二月ころ、平成八年度の年末・年始における業務運行等の計画(年繁二四項目)に関して質問した際、及び同年四月ころ、新昇格制度の発令に関して質問した際、原告森田が胸章を着用していなかったため、土屋課長代理がこれを注意したことが認められる。しかし、先に説示したとおり、職員に対し胸章着用を義務付けた各要綱は正当なものであり、胸章未着用者に対し管理職が注意を与えることもまた正当であるから、土屋課長代理がした前記対応をもって、原告森田の組合活動を妨害したものということは困難である。

(二)  また、<証拠略>によれば、(1) 原告森田が所属する郵政労働者ユニオンは、他の複数の単一組合とともに全労協・郵政労働組合全国協議会(以下「郵政全労協」という。)という連合団体を結成し、郵政本省との間で、団体交渉の方式、手続等に関する労働協約を締結するための話し合いを行っているが、現時点では、郵便局長を含む地方支分部局長に対して郵政労働者ユニオンとの団体交渉に関する郵政大臣の権限が委任されてはいないこと、(2) もっとも、平成六年八月から、団体交渉の方式、手続等に関して他の単一組合との間で既に締結されている労働協約を単一組合の集合体である郵政全労協にもそのまま適用した場合に生じる問題点等について、協約締結前に洗い出し、整理・解決することを主な目的として、労働協約締結のためのいわゆる訓練助走が行われているが、その具体的方法としては、郵政労働者ユニオンの各地方支部との交渉については、これに対応する代表交渉郵便局等が当たることとされ、各郵便局において個別に対応するものとはされておらず、交渉を行った代表交渉郵便局と各地方支部が、地方支部内の各郵便局、各組合員に交渉内容をそれぞれ伝え、各郵便局では、組合員から質問があれば、労務担当者が可能な範囲で説明をするという取扱いになっていること、(3) 原告森田が執行委員を務める郵政労働者ユニオン多摩地方支部に対応する代表交渉局は武蔵野郵便局であり、多摩郵便局では、労務担当者と原告森田との間で事実上の話し合いが持たれていたに過ぎないこと、以上の事実が認められ、右認定事実によれば、土屋課長代理は、団体交渉に関する権限を有するものとはいえないから、原告森田の質問に対し同課長が説明をしなかったとしても、これをもって、原告森田の正当な組合活動を妨害したものともいえない。

(三)  したがって、その余の点について判断するまでもなく、原告森田の主張は採用することができない。

2  <証拠略>によれば、(1) 原告千葉は、いずれも勤務時間中である次の<1>ないし<4>記載の各日時において、無断で離席し、胸章着用に関する達の発出状況について問い合わせをするため、同記載の各郵政局に電話をかけたこと、<1> 平成八年一〇月二九日午後二時五六分ころから三時〇一分ころまでの間、四国郵政局、<2> 同月三〇日午後一時三〇分ころから一時三五分ころまでの間、中国郵政局、<3> 同日午後三時三〇分ころから三時三三分ころまでの間、信越郵政局、<4> 同日午後四時一八分ころから四時二五分ころまでの間、北陸郵政局、(2) 右の点について、原告千葉の勤務する東京貯金事務センター第三業務部第三振替口座課長山崎勝弘は、同年一一月一四日、事実関係を確認するため原告千葉から事情を聴取した上、同年一二月四日、同原告に対し、右の行為が問責の対象となることを告げた上で、同月六日までに始末書を提出するよう通告したが、原告千葉はこれに応じなかったこと、(3) 東京貯金事務センター所長西川吉郎は、同月二七日、勤務時間中に無断で離席し勤務の一部を欠いたことを理由として、郵政部内職員訓告規程に基づき、原告千葉を訓告に付したこと、以上の事実が認められる。

右に認定した事実によれば、右訓告は、勤務時間中の無断離席を理由とするもので、右訓告に至る経緯に照らしても、これを違法ということはできないというべきである。

(二) したがって、その余の点について判断するまでもなく、原告千葉の主張は採用することができない。

3  なお、被告は、原告森田及び同千葉の主張について、右主張に係る請求は、従来の請求との間で請求の基礎に同一性がないから、右追加的主張は許されない旨主張するところ(前記第二の四の3)、いずれの請求に係る主張においても、胸章着用の義務付けにかかわる事実が相当程度密接に関係していることが認められるので、このことを考えると、従来の請求と新たな請求が請求の基礎の同一性を欠くとまでいうことはできない。

したがって、被告の右主張は採用することができない。

三  結論

以上の次第であるから、原告らの請求は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がない。

(裁判官 福岡右武 矢尾和子 西理香)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例